今回は宏雅堂の創業者。二宮保房についてお話ししたいと思います。
二宮保房(1920~2005)
私の祖父。ほとんどの出来事が私の生まれる前の事なので聞いた話ですが
1920年(大正9年)に山梨県の旧久那土村車田(現在の身延町車田)に二宮家の三男として生まれます。
家は宮大工でしたが、その父を早くに亡くし、宮大工の家業はその代で絶えてしまいました。
そして、第二次世界大戦。
戦争へ行きます。
1945年の終戦後、本人は職業軍人になるつもりでいましたが、日本軍がなくなってしまったので叶いませんでした。
こうして戦地から帰還して間もなく、印章彫刻業を営んでいた兄である澄太郎の下で印章技術を修業。
それと同時に印章の外交員として東京や千葉を中心に自転車を走らせ、印章を販売しました。
この頃のはんこの販売は外交でした。
その後、1951年(昭和26年)に独立。実家である現在の身延町車田で宏雅堂を開業。
『一生モノの印章を』
と高級手彫り印章を中心に彫刻。
その一方で
『人と印章との出会いを大切にしたい』
という思いから卒業記念印章の彫刻も始めました。
そのため、大量生産が必要となり10人ほどの従業員を雇用し、事業を拡大しました。
はんこを彫る仕事の傍ら、商工会長としても活躍。各地の物産展にも多く参加しました。
なかでも池袋サンシャインシティでは何度も物産展を開催し、徹底的な対面販売に徹しました。
対面販売にこだわっていた理由としては
お客様が本当に必要としているモノは面と向かって会話をするのが一番だ。
という考えからでした。
得意な工程は字入れ。印面に字を書く作業。
というよりも、昔のはんこ屋さんは
親方が字入れをして、他の人が荒彫り、仕上げをするという形式で工程ごとに分かれていました。
とにかく字が命という訳ですね!
その実力が認められ、昭和61年には山梨県卓越技能士に認定されました。
その他にも
山梨県印章技術師連合会の会長や
下部町印章業組合の会長など
山梨県の印章業界発展に貢献しました。
そんな創業者の思いは現在の宏雅堂にも受け継がれています。

宏雅堂